ウクライナ旅日記(2024.10.2-10.13) 後編
- uaeldercarejp
- 2024年10月27日
- 読了時間: 8分
(※今回のウクライナ現地への旅にかかった交通費、宿泊費、飲食代はすべて個人負担で賄っており寄付金は使用していません)
Patriot事務所訪問
10月7日(月)NGO“Patriot”事務所を訪ねるのは午後だったので市内を散策する。忙しく行きかう人々はヨーロッパのほかの都市と全く変わらず、戦争中であることは感じない。最近、中心部が直接攻撃されることは少なくなっているようにみえる。対空防衛システムが整備されてきているのか、ロシアのミサイルが不足しているのか、理由はわからない。Patriot事務所のあるビルの前に着き、Anton君にメールするとすぐ出てきてくれた。Google Mapはありがたい。

Patriot事務所はスポーツ宮殿近くのビル3階にあり支援物資が所狭しと置いてある。Mariiaさんが事務所の案内と活動内容説明をしてくれる。置いてあるものは、主に外傷処置の救急セットや大人用おむつなどで、前線で不足している救急セットの配送や、前線近くの医療施設、留まっている住民への衛生用品供給を行っている。20人ほどがボランティアで運んでいるとのことで、2014年に始まったロシアのクリミア、ドネツク侵攻以来ボランティアの支援活動を継続している。特に、ザポリージャ方面の支援に力を入れており、最前線も近く危険な活動地域である。リーダーの方は不在だったが、Anton君、Mariiaさん、受付の人々が大歓迎してくれ、私たちも訪問の意義を感じることができた。
10月8日(火)朝、Anton君たちが車でホテルに支援物資を受け取りに来てくれる。段ボール十数箱に詰め替え、目的の一つを果たすことができほっとする。

前日まで降っていた雨がやみ、雲一つない快晴で幸運であった。空になったスーツケース、スポーツバッグを部屋に戻し、しばらく待っていると、支援物資を事務所においてきたAnton君とMariiaさんが再びホテルに迎えに来てくれる。衛生用品を割安で購入できる郊外の店に一緒に行くためである。その店はEKOMEDといい、Patriotはそこで時々購入しているようで店のスタッフもすぐ対応してくれる。いくつかのサイズの大人用紙おむつ、水を使わず洗髪や陰部清拭ができる使い捨てタオルを、寄付金を使ってクレジットカードで購入した。彼らは物資を受け取るごとに写真を撮りTelegramで送ってくれる。この日の購入品も昼食をとっている間に倉庫に集めてくれ、私たちとAnton君とMariiaさん4人で写真を撮った。写真だけから正確な数量は測れないが、誠実な活動であることの証拠の一つとなっている。昼食は医療用品店近くの地元料理店でMariiaさんがごちそうしてくれた。何十年ぶりかに食べたボルシチはとてもおいしかった。昔、家近くのロシア料理店で食べたときはあまり感動しなかったが、ボルシチはウクライナ料理であるということを納得できた。

ウクライナ訪問前、物資が不足している地域に直接持っていき、高齢者や医療福祉関係者の話を聞きたいと思っていたが、考えてみれば、キーウでも警報が毎日のように発令されている中、さらに危険なところに私たちを連れて行くのは困難であろう。2011年の東日本大震災のあと、避難所を訪問し活動することの難しさを強く感じた。全く状況は異なるものの、人々が非日常を何年も強いられる辛苦を想わずにはいられない。
帰国への長い旅
10月9日(水)帰国の長い旅が始まる。日本からワルシャワへの寝台列車予約ができなかったので、バスでいったん西部の都市リヴィウに向かう。Eチケットに載っているキーウ駅近くのバス発着場で待つ。指定された番線にバスは止まっているが、発車時刻10:00AMになっても誰も来ない。案内所もなく誰に聞けばいいかもわからず心配になってAnton君に電話する。すぐやってきてくれ、発車番線が変更になったとのこと。言葉が通じる地元の人がいるありがたさ。メールくらいしてほしいと思う。11:30発の次便に乗る。夜20時近くリヴィウ着。ホテル近くにバーやレストランはなくホテルでボルシチを食べる。美味い。
10月10日(木)長い移動を考えもう1泊リビウ泊。日中旧市内を散策。市庁舎前で人々が立ち止まって何かを待っている様子。霊柩車がパトカーに先導されてやってくる。トランペットの演奏とともに、皆その場で黙とうする。誰の葬儀か、戦争と関係しているのか、不明。ウクライナのコーヒーはおいしい。ホテルの朝食などで何回かカプチーノを飲んだがどれもなかなかのものであった。土産にコーヒー、フレバーティーを買う。

10月11日(金)9:20 AMリヴィウ駅前のバス停からワルシャワ行きのバスに乗る。広大な小麦畑を眺めながら国境に向かう。昼前、ウクライナ側国境検問所到着。全員が自分の手荷物を持って降り、手荷物検査とパスポートチェックを受ける。バスに乗り込み、ポーランド側検問所へと動く。ポーランドの国境検問職員が再度手荷物検査とパスポートチェックを行う。ここまでで約2時間。その後バスの検査のためか、乗客を乗せず運転手と手荷物搬入手伝いの男性だけを乗せてバスはどこかにいなくなる。乗客は不満そうな表情を見せることなくじっと待っている。

いつものことなのだろうか。2時間ほどしてようやくバスが戻ってくる。翌日朝の出発を考え、ワルシャワショパン空港直行バスにしたが、到着予定の16:20PMを大幅に遅れて午後8時ころ空港に着く。エアーポートホテル宿泊。
10月12日(土)ワルシャワ朝3℃、8:55AMフィンランド航空でヘルシンキへ。5時間ほど待ち時間あり、ムーミン、サンタなどフィンランドらしい土産物屋が並ぶ。10月13日(日)12:55PM成田着。スムーズに預けた手荷物を見つけ、空港内駐車場に向かう。私も江刺君もここだと思っていた場所に車がない。江刺君がスマホに撮っていた駐車場所の番号を頼りに1階から4階まで数回探す。駐車場事務所に行くと入り口のカメラでナンバーが記録されているという。地下1階に止めていた。IoTに感謝。
二つのこと
最後に二つのことに触れたい。まず同行してくれた江刺君へ感謝したい。外務省から退避勧告の出ているウクライナ訪問は、できる限り危険地域を避けた計画だったとはいえ万が一という可能性はある。実際、キーウ滞在中、空襲警報とともに対空砲火とみられる砲音が聞こえた。しかし、大量の荷物を持ってほぼ言葉の通じない国での移動は一人では不可能であった。また、二人の知恵があって何とかなった場面が数多くあった。
江刺君と知り合ったきっかけは、彼の勤務する南三陸町のクリニックの医師が急死し、3年間助っ人で通った時、新幹線駅まで送迎してもらったことにある。隔週1泊2日の勤務で、初日の宿泊時、一緒に南三陸町や気仙沼市、石巻市の居酒屋で様々な話をした。昨秋、ロシアのインフラ攻撃でウクライナは厳しい冬を迎えるというニュースを見て、何かしたいという衝動に駆られた私は、石巻の居酒屋でウクライナを訪問する話をしたところ、その場で「行きましょう」ということになった。無謀な決断、とご家族や周囲から反対されたに違いなく、その後一度も撤回するとの言葉は出なかったが、いろいろ悩んだに違いない。キーウに向かう寝台列車の中で仕事のことや生き方など語り合ったことを思い出す。旅の終わりに近づいたころ「出発前に娘に泣かれました」とぽつんと言った。そうだろうと思う。
もう一つは、ウクライナを支援するからといって、なぜ現地まで行こうと思ったか、への答えである。全くの偶然であるが、旅行中、カバンの中に高原到が書いた 「戦争論」(講談社、2023年)を入れていた。答えはその中に書かれていた。
私は、研究所時代、アメリカの看護学研究者パトリシア・リアーさんと、被爆者、真珠湾攻撃生存者という日米双方の戦争被害者への聞き取り調査を行い、その語りをもとに創作された脚本で、日米の高校生によるパフォーマンスを上演したことがある。ある時、研究成果をアメリカ老年学会のシンポジストとして発表したところ、一人のユダヤ系アメリカ人研究者から「日本の被爆者はアメリカを赦したのか」と質問された。答えに窮した私は、あいまいに「そう思う」というしかなかった。イスラエルによるガザやレバノン攻撃は世界中から非難されているが、イスラエル政府の非人道的攻撃がやむ動きはない。その理由の一つは、ユダヤ人はホロコーストを決して赦さない、自らへの攻撃は決して赦してはならない、という確信に満ちた復讐心があるからではないだろうか、と推測する。
高原到は、“『鬼滅の刃』と『進撃の巨人』という現代日本きってのメガヒット(が強い訴求力を発揮できたのは)、―――私たちの現在に根本から欠けているものを突きつけてくるからではないか?”“(この)熱狂は、ひょっとして私たちの国が「半国家」でしかないことへの潜在的不安から生じているのではないか?”“これらすべては、敗戦直後から現代にいたるまで日本人がひたすら復讐心を抑圧してきたことを証していないだろうか?”(pp.120-122)と問うている。数十人の被爆者にインタビューをしたが、彼らから「アメリカに復讐しなければならない」、「アメリカを決して赦さない」、といった発言を聞いたことはなかった。被爆者による日本政府への批判は頻繁に聞かれるが、原爆を投下した当事者であるアメリカという点に焦点を当てた直接批判は極めて少ない。
ユダヤ人が抱く強烈な復讐心、攻撃を決して赦さないという確信。それを戦後ずっと抑圧し不安に駆られたまま「半国家」であり続けた日本。一方で、アジア太平洋戦争の「アジア」侵略への禊ぎはサンフランシスコ平和条約で解決済みと納得している私たち。私は、兄弟国だったロシアから攻撃され、強制的に「半国家」から「国家」へ自立しようとしているウクライナを、自分の目で見てみたいと思ったのだ、と今納得している。