ウクライナ旅日記(2024.10.2-10.13) 前編
- uaeldercarejp
- 2024年10月27日
- 読了時間: 7分
(※今回のウクライナ現地への旅にかかった交通費、宿泊費、飲食代はすべて個人負担で賄っており寄付金は使用していません)
Kyiv ExpressD68
10月2日(水)夕方、仙台からやってきた江刺君と落ち合い車で成田空港に向かう。支援物資のザーネクリーム270個とレッグウォーマー200個をスーツケースに詰めるとかなりの重さになり、反対に、帰りの便では空になることを考慮して、大きなスーツケース3個、大きなスポーツバッグ2個に制限重量を考えながら詰める。合計100Kgを超えるので、助っ人の江刺君には多謝!彼の同行がなければ成り立たない旅だった。ウクライナに最もアクセスのよいポーランド航空が満席だったため、ヘルシンキ経由のフィンランド航空で出発。10月3日(木)朝、ワルシャワ着。ここで最初の試練。ヘルシンキ空港の手荷物仕分けシステムがダウンしたとかで、手荷物案内に聞いてもワルシャワにいつ配送されるかわからないとの返事。同じ飛行機で着いた日本人男性は、昼の便で来るかもしれないので待ってみるとのこと。我々は一泊する予定だったので、連絡先をホテルにし、とりあえずチェックインする。

ポーランドといえばショパンとコペルニクスが有名で、宿泊先はコペルニクス科学センター近くにとり、ショパンの銅像がある公園などを散策して過ごす。夜、5個のうち4個の手荷物が見つかり発送手続きに入ったとの案内。良かったと思いつつ、明日のキーウ急行出発までにホテルに届くか、もう1個はどうなるかと心配しつつ休む。10月4日(金)最後の1個も配送手続きにはいったとのメール連絡。午前、ワルシャワ市内を散策。午後ホテルに戻ると5個とも着いているとのこと。ほっとする。
夕方、ワルシャワ東駅に行きキーウ急行(Kyiv ExpressD68)の発車ホームの掲示を待つ。ヨーロッパの大きなターミナル駅では、発車15分くらい前にならないとどのプラットホームから列車が出るかわからないため、たくさんの荷物を持つ移動は大変である。発車ホームの番号が掲示されたので二人でプラットホームに急ぐ。エスカレーター、エレベーターがなく、通路からプラットホームに持ち上げるのも一仕事である。長距離移動を考え1等寝台を予約していたので駅員に尋ねると最後尾車両であるという。駅員からせかされ発車時刻も迫っていたが、数両前から乗って車内を移動すればいいではないかと思った。しかし、1両ごとにいる係員は、お前の車両はもっと後ろだと指さす。後でわかったことだが、車両と車両の間に通路がなく、1両ごとに一人係員が終着駅まで乗務する形式だった。入り口で係員に切符を見せ5個の荷物を上げたとたん、キーウ急行は17:31PM、ごとんと動き始めた。

寝台個室は三段ベッドの真ん中を取り払った二段ベッドで、5個の荷物を上の棚と下に置けばほとんど身動き取れない。でもベッドを腰掛にして過ごせるのでさほど窮屈ではない。係員がやってきて何やら注意事項をしゃべる。タブレットで日本語変換してこれだと見せられたのは、トイレではトイレットペーパーを流すなという。はてどういうことかと思ったら、江刺君がヨーロッパの鉄道ではそういうことがあるらしいと聞いたとのこと。あとで便座のない車中トイレを使ったとき、使用済みペーパーを入れる容器が置いてあったので理解した。昔、日本のトイレ付き列車は、下を覗くと線路が見えたことを思い出す。深夜、国境検問の兵士が来てパスポートをチェックし、乗客全員のものを束にして持っていく。もう一人の兵士が、何が目的できたのかなど問いただす。日本ウクライナ友好協会が作成してくれた支援物資一覧の書類を見せると写真を撮り検問は終了した。
Buchaへの旅
10月5日(土)キーウ中央駅12:17PM到着。1時間の時差を引いてもおよそ18時間の長旅。Uberのような配車サービスが発達しているためか、タクシー乗り場にほとんどタクシーはとまっていない。タクシーと思われる車から運転手が出てきたので、この荷物全部乗るか、と手で示すと、近くにとまっていたバンの運転手に声をかけそれでホテルまで行く。メーターはなく、料金は向こうの言い値である。少々高いと思ったが、荷物も多くほかに方法が思いつかない。宿泊はInterContinental Kyiv Hotel。超高級ホテルだが、ウクライナ外務省隣にあり、毎日空襲警報が出るウクライナ首都でロシアが攻撃を避ける場所のはずとの計算で選んだホテルである。日本の政府や報道関係者も利用することが多いと聞く。協力してくれている江刺君に何かがあっては困るとの判断だった。

支援物資を託すNGO“Patriot”のAnton君、MariiaさんにTelegramで面会時間を打ち合わせる。週末だったので彼らの事務所訪問は月曜日になる。聖ソフィア大聖堂、独立広場など旧市街を散策。独立広場は、戦死した兵士の写真付きポスターとウクライナ国旗で埋め尽くされていた。新しい献花と写真も多く、祈りを捧げる人々もあちこちにみえる。2年7か月続く戦争を想う。ホテルフロントで空襲警報を知らせるアプリをダウンロードするよう指示され、スマホに読み取る。シェルターの場所を二人で確認に行く。サインをたどっていくと、元々は地下駐車場として使用していた場所で地下3階にある。ひと眠りした深夜、スマホアプリの空襲警報が鳴る。起きて外をみると遠くで空襲警報が鳴り響いている。10分ほど後、ドーン、ドーンと対空砲火の音が数回聞こえる。シェルターに避難するか考えたが外の警報が止まったのでそのまま休む。明け方、再びスマホが鳴る。最終的にスマホの警報が解除されたのは夜が明けてからであった。

ホテルスタッフは、避難するかどうかはそれぞれの判断で、という。自分の体のことなので当然のことであるが、寝入ったころ飛び起きて朝までシェルターにいるかとなると迷うところである。ウクライナ政府提供のスマホアプリは、全土をいくつかの地域に区分し、それぞれの地域で警報が発令される。その一つ一つの地域もかなり広いので、近くか遠くか、ドローンなのかミサイルなのかもわからない。わかったからとて危険がどの程度など予想できるものでもない。土曜、日曜と何度か警報が鳴り、これが2年半以上続くキーウの人々の心境はどれほどのものか、前線近くの人々は、と考えると戦っている兵士の毎日の生活は私の想像を拒否している。シェルターに避難しようかどうか迷っているなどはるかに離れたところの話である。
10月6日(日)、一日空いたので、ロシアによる侵攻直後の虐殺の地Buchaを訪れることにする。地下鉄やバスのカード購入にはウクライナの携帯番号登録が必要で、ホテルのコンシェルジュに手数料を払い近くの地下鉄駅で2枚買ってきてもらう。このような時高級ホテルはありがたい。Bucha行きのバスが出ているという地下鉄駅で降り、外に出て停留所を探す。通行人に聞いたり乗客待ちをしている運転手に聞いてもあそこらあたりに来るというだけではっきりしない。電柱に貼ってある時刻表のようなものをGoogleで翻訳し、Buchaと書かれているのを見つける。時刻表の時間を過ぎ1時間ばかり待つも来ない。時刻表の隅に平日とあるのに気付き、土日はと探すも載っていない。多少英語を話す待ち人に聞くと、肩をすくめてそのうち来るだろうとの返事。さらに半時間ほど待ち待望のBucha行きマイクロバスがやってくる。
運転手に現金で料金を払い、40分ほどでBucha到着。国際刑事裁判所が取り上げた虐殺現場の住宅や通りまでは数Kmあるがタクシーやバスなどは見当たらず、インターネットで当時の地図情報を調べ、Google Map頼りに歩く。

バス停からBucha駅までの通りには、亡くなった兵士の写真が愛称やプロフィールとともに掲示されている。おそらく地元出身の人たちなのだろう。戦禍の跡はほとんどわからず、新築の家や改築済みの家々を見ながら歩く。拷問されて死亡したり銃で撃たれた人々が通りに横たわっていたというヤブルンスカ通りに着く。その南にはイルピン川が流れており、イルピン市との境界になっている。この川を挟んでウクライナ軍がロシア軍を追撃したことが虐殺の一因となったのでは、と想像する。交差点に虐殺の地を示す案内板を見つけ「かの有名な地」であることがわかる。Buchaの人々は「かの有名な地」など忘れたい、忘れてほしいのだと想像する。通り過ぎる人にヤブルンスカ通りはどこか、などと聞かなかったのは幸いだった。